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初めまして、隠れドンファンと申します。この4月で満61歳になります。
団塊世代の一人として、黄昏流星群の一つとして、地上に墜ちるまで輝き続けようとしています。 北国の「大空と大地の中」で、常に恋するオトコで生きて行こうとしています。
オレンジさんや誠さんのお話、そして皆様のお話を伺って・・小生も思うところを書きたくなりました。
かつて自分のブログで書いたのですが・・ 『性は生であり、また聖なるもの・・』と言う事について
「性は生」であり、かつ「性は聖」なるものである。 「心を生きる」と書いて「性」という字になる。 生とは何か?生を感じる時とはどんな時か? 「自分の存在を感じるのは、恍惚の瞬間である」 人がもっとも恍惚を感じるのはどんな時か? それは性交の瞬間であると答えるだろう。 生は性に繋がる。
未開社会においては供犠の最高潮、犠牲獣の死の瞬間に、参加者全員が恍惚と一体感を感じていたという。
生は聖に繋がり、死に繋がる。 性交の絶頂においてもまた、人は自らの身体の激しい消耗を覚える。 ゆえにそれは小さな死に例えられるほどだ。 性もまた聖と死に繋がる。
現代社会は死を排斥しようとする。 死者は人々の目から覆い隠され、墓地は僻地へと遠ざけられる。 現代社会は聖を排斥しようとする。 宗教と聞くと人々はなぜか嫌悪感を覚える。 現代社会は性を排斥するしようとす。 性はどこか闇の匂いをまとったものとして、社会制度として認知されない。 そのために性はどこか歪み、毒々しい花のように咲き乱れる。
聖と性の排斥は生の排斥に繋がる。生者も死者と同じように排斥される。 抑圧された人々は新興宗教に走り、性風俗に身を投じ、叶わぬ時は自ら命を絶つ。
聖と性の解放が叫ばれた時代があった・・それはルネサンス。 その反動としての主知主義の台頭・・それが現代社会。
性を聖なるものとして解放するのか、聖が性的なものを抑圧するのか。 しかし現代社会はその双方を排斥しようとしている。
「原始、女性は太陽であった」 その時代、性は解放され人々は生を謳歌し聖なるものとして崇めた。 「存在(existance)」と「恍惚(extacy)」は語源は同じであり、 フロイトは 「エロス(生)とタナトゥス(死)の相克」に人間を見、 バタイユは 「エロティシズムとは死の瞬間まで生を讃えること」だと言った。
「性は生であり、また聖なるもの」と私は思う。
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